名前   - side Will -



「ふぅ。こんなところかな?」
 今日提出の宿題の採点を済ませ、僕は顔を上げる。
 島に戻って二週間。先生の仕事は、未だ慣れないことが多い。
(先生は、僕のときが初めてだったんだよな……)
 最初の内は色々衝突もしたりしたけれど、それでも教え方は今の僕よりうまかったような気がする。比べてみても仕方のないことなのだけれど。
(ああでも、一番最初の学校の授業はすごいことになってたよな)
 思い出して思わず笑みがこぼれる。あのときの状況を思えば、僕の授業だってそれほど捨てたものではないかも知れない。
(とはいえ、あのときは生徒の方にも問題があったわけだし)
 子供だった自分。島の子供達は初めての学校で、慣れていなかったわけなのだから。ああなることは予想できても良かったのに。
 それでも、自分がどんどん蔑ろにされていくようで。なんの役にも立てていないことがわかっていたからよけいに、辛かった。対等の位置に立ちたくて、でもそれだけの力がなくて。義務感なんていらなかった。必要として欲しかった。……それは、今でもだけど。
 先生の授業と違って、明らかにまごついてる僕が本当に役に立てているのかと、不安にならないわけじゃない。
 でも今の僕でだめなら、新しく、より強く変わっていけばいい。それは、先生に教わったことだ。
「ミャーミャ、ミャー!」
 僕の仕事を終わったのを見こしてか、テコが飛びついてくる。器用に膝をよじ登って机の上まで登ると、明日使う教材を引き出してきた。
「そうだね。早く予習をしちゃわないと」
 とはいえどのあたりまで授業を進めるかは、先生に聞かないと決めきれない。この辺がまだまだ半人前だと思い知らされるところだ。
「先生! 明日の授業のことなんですけど……」
 向こうの机で仕事をしているはずの先生は、こっちを向いてぼんやりと座っている。声も、聞こえていないようだ。
 仕方なく、僕は立ち上がり先生のところまで行き、顔をのぞき込む。あのころと変わらないあどけない少女のまま大人になったような顔。こんな顔してる癖して、やるときはやってくれる人なんだから、あなどれない。
「先生?」
 声をかけて初めて僕に気付いたような顔をする。
「え、ええ? ななななんですかウィルくん!?」
 ウィル――くん。島に戻ってきてから、先生は僕のことを時々そう呼ぶ。たいていが無意識のときで、つまりそれが先生の中の本当の僕の位置。
 離れていた時間があるから、前と同じ位置に立てるとは思ってはいなかったけど。それに確かに、違う位置に立ちたいとは思っていたけど。それは先生に近づきたかったからで、離れたかったわけじゃない。
 先生にとって僕は今でも生徒で子供で。ずっと一緒にいたあのときよりも距離が遠くなった気がする。それは……離れていた時間があるのだから、確かにおかしな話ではなくて。
「……明日の授業のことなんですけど」
「ああ、授業ですか。ええと……」
 慌てて教材を取り出す。ふと、机の上を見るとほとんど進んでいない仕事。
「先生。今まで何をやっていたんですか」
「え?」
 きょとんとしている先生に僕は机の上を指す。
「仕事。ほとんど進んでないじゃないですか」
「あ、と。ええと、ちょっと、ぼんやりしてて」
 真っ赤になってうつむく先生。そういう姿を見て、かわいいと思う。思ってしまう。
 昔は見上げてばかりいた先生を、今は見下ろしている。そう、変わらないはずはないんだ。変えていかなくちゃいけない。子供だった僕と違う位置に立ちたいのなら。
 あのときは守られてばかりだったから、今度こそ守りたいと思う。そのために――
「もうちょっとしっかりして下さいよ、アティ……先生」
 床に、教材が散らばる。
「……何、やってるんですか」
 ちょっと手が滑ってとか言いながら、先生は慌てて教材をかき集める。
 しかし、焦っているのかまともに拾えていない。呼び捨てにしきる度胸がなくて、結局先生をつけてしまったけど、それでも効果はなかったわけじゃない。
 拾うのを手伝いながら、思う。
 先生と僕は離れてしまったのではなく、出会いから始めなおしただけかも知れない。
「ほら。ちゃんと持っててくださいよ……アティ」
 ばさばさばさっと再び落ちる教材。
「い、いま、いま!」
「どうかしたんですか、先生?」
 何事もなかったかのように笑ってみせる。
 そう、今の僕と先生の距離が離れてしまっているなら、新しい関係を作っていけばいいだけのこと。
 それに今の関係も、僕が思うほど悪くはないのかも知れないし。
 だけど、問題はこれからだ。本当はかなり心臓がどきどきしている。名前を、呼ぶ。それだけのことなのに。
 それでもこうやって少しずつ近づいていったら、いつかは先生の隣に立てるかも知れない。今日よりは明日。未来は続いているのだから。


ウィルが……
思った以上にタフで、書いててびっくりです。
でも、先生の生徒だったわけだから
そういうものなのかな?

この後、アティ先生編に続きます。


お話し目次へ topへ