名前   - side Aty -



 彼が島に戻ってきてから、二週間が過ぎました。
 背も高くなったし、たくましくなった。大人になったウィルくん。それでもふとした仕草や表情に、あの時のままのウィルくんがいます。
 ウィルくんはわたしの一番最初の生徒。それはこれからだって変わらないんだって。そう思ってたのに。
 だけど何かが、変わってしまった気がします。ささやかな、だけど決定的な何かが。
 どうしてだろう。戻ってきてくれてうれしかったのに、とってもうれしかったのに。なぜか、そばにいると落ち着かないんです。
 ウィルくんが大人になったからって、何も変わらないはずなのに。あの頃みたいに接することが、できません。
 ウィルくんが大切だという気持ちに、大切な……生徒だという気持ちに変わりはないはずなのに。どうして、なんでしょう……

 青空教室での授業も終わり、わたしは家へ戻りました。ウィルくんの待つ家へ。ウィルくんはまだ家がないので私のところに下宿、という形になっているんです。
 ウィルくんは戻ってきてからずっと、先生の仕事を手伝ってくれています。だから普通なら一緒に帰るのが当然なのだけれど、わたしは理由を付けてウィルくんを先に帰しました。
 話すことはたくさんあります。ウィルくんがいない間の島のこと。ウィルくんの学校での思い出。授業のこと。
 相手はウィルくんで、話したいことも聞きたいこともたくさんあるのに、側にいるとなぜか苦しくなってしまいます。
 その苦しさから逃げたくて、一人になってはみたけれど。ウィルくんが側にいないのも、なぜか不安で。わたしは、家に帰りました。
 帰ってみるとウィルくんは宿題の採点をしていて、一度振り向いてお帰りなさいを言った後はまた仕事に戻っていました。
(わたしも仕事をしないと……)
 そう思って机に座っても、全く集中できません。
 気が付くとわたしは、真後ろにあるウィルくんの後ろ姿を見つめていました。
 机に向かって一生懸命仕事をする姿は、あの頃の姿に重なります。大きくなった背中を眺めながら、ウィルくんはわたしの大切な、生徒なのだとずっと言い聞かせていました。
 どうして、そんなことをしたのかわかりません。だけど、そうしていないと何か叫びだしたい気持ちがあふれてきそうで落ち着かなかったんです。
 突然膝の上に乗ったテコに、とても、とても柔らかく笑いかけるウィルくん。どうしてその笑顔を見て、わたしはこんなにも胸が苦しくなるんでしょう。
 昔もよく、怪我をした動物たちの手当をしながら、そんな風に優しく笑いかけていました。それを見つめている内に、戦っているときの真剣な顔とか、怒った顔やあきれた顔、暖かい笑顔とか、思い出の中のウィルくんがたくさんたくさんあふれてきて。うれしいような、苦しいような心地で胸がいっぱいになっていきました。
「先生?」
 そして、気が付くと目の前には大人になったウィルくんの顔があって。
「え、ええ? ななななんですかウィルくん!?」
 びっくりしてどきどきしている心臓を落ち着けられないまま訊くと、ウィルくんは何とも言えない寂しそうな顔をして言いました。
「……明日の授業のことなんですけど」
 その表情に胸が締め付けられる思いをしながら、それでも授業の話がでたことでわたしは平静を取り戻すことができました。
「ああ、授業ですか。ええと……」
 急いで机の上にあった教材を取り出します。教材を見ながらどこまで進めようか考えていると突然、
「先生。今まで何をやっていたんですか」
 と訊いてきました。
「え?」
 何を言われているのかわからなくて、聞き返すことしかできないでいると、
「仕事。ほとんど進んでないじゃないですか」
 と言われてしまいました。
「あ、と。ええと、ちょっと、ぼんやりしてて」
 ずっとウィルくんのことを考えていました、なんて言えなくて。頬が赤くなっていくのを感じたけどどうすることもできませんでした。
(あきれられて、いるんだろうな……)
「もうちょっとしっかりして下さいよ、アティ……先生」
 アティ。一瞬名前で呼ばれたのかと思って。わたしの中の不安が大きくなります。なぜだかわからないけれど、とても恐ろしい気がしました。
「……何、やってるんですか」
 気が付くと、床に教材が散らばっていました。
「ちょ、ちょっと手が滑ってしまって」
 慌てて言い訳しながら教材を拾って。一緒に拾ってくれている彼の手を見ながら、不安の正体が少しずつ、わかってくる気がしました。
「ほら。ちゃんと持って下さいよ……アティ」
「い、いま、いま!」
 心臓が高鳴って。
「どうかしたんですか、先生?」
 何事もなかったかのように笑う顔がまぶしく見えました。
 ずっと、ずっと言い聞かせてきたこと。ウィルくんはわたしの生徒だから。一番最初のとても大切な生徒だから。
 だから、この想いは生徒に対するものだから。決して恋なんかじゃないって、自分に言い聞かせてきたんです。そうやって、気持ちを抑えてきたんです。
 あの時彼の気持ちに気付けたのは、わたしも彼を見ていたからなんだってこと、知りたくなくて。知ってしまうのが怖くて。ずっと知らない振りをしてきたのに。
 名前で呼ばれたら、いやでも、思い知らされてしまう。もう、ウィルは生徒じゃないんだって。一人の、男の人なんだって。知ってしまうから。
 知ってしまったら、もう、気持ちを抑える理由がなくなってしまう。
 だけど、怖いんです。人を好きになるということ。誰か一人を特別に想うこと。自分が変わっていってしまう気がして。
 なのにわたしは、知ってしまいました。この想いに、気付いてしまいました。もう、見なかったことにはできません。
 だけど、今はまだ。もう少し時間が欲しい。この想いを受け入れるだけの時間が。
 だから、名前で呼ばないでください。もう少しだけ時間を下さい。そうしたらきっと…… もっと自分に向き合えると思うから。その時まで、このままで。


なんか……甘い。
いや、展開的には全然甘くないとは思うんですけど。
ううん、自分的にはきつかったりー。

この話。
なんだかまだ続くような予感が……(未定ですが)


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