朝影



 これがゲイル。すばらしい――

 この研究がなれば我々人間は――

 イヤだイヤだイヤだイヤだイヤダイヤだ――

 虚空に浮かぶ水槽。無機質な顔をした生き物たち。無感動にそれを見る幾多もの視線。

 ――この素体でもダメだ。もっと上質のものでなければ――

 守っていた者に、欺かれ捕らえられたそれ。その体が切り刻まれ、生きたままモノへと貶められる。

 いやああああああああぁ!!


「ゆ、め……?」
 寸前まで見えていた光景が、まざまざとまぶたの上によみがえる。それは、罪の記憶。
「……………」
 あたしに、ネスのように一族の記憶が受け継がれているわけじゃない。だから、見たものは夢にすぎないことはわかっている。
 それでも、それが罪を表したモノであることには間違いなくて。
「…………っ」
 隣で眠っている護衛獣を起こさないように、静かに布団を出る。様々な感情が胸の中であふれて、泣き出したいのか、叫びたいのか。自分でもわからない。
 そっと部屋を出て、テラスに向かう。
 見上げようと思った月は、もう、沈みかけている。
「夜明け、か……」
 明け方の空はあまりにきれいで、今の自分と違いすぎて、目を背けたくなる。
 すでに起きてしまった罪を償うために、今できること。
 嘆くことでなく、逃げることでなく、立ち向かうこと。
 ちっぽけなあたしには、何ができるかなんてわからない。だけど、だから。今はアメルを守りたい。遠い昔にあたし達が傷つけてしまった、優しい彼女。
 アメルを守るために今、あたしたちは戦っていて。そのために傷つくことだって、怖くない。アメルの笑顔を守れるなら、あたしは召喚術の嵐の中へだって駆けていける。けれど……。
 例えば、彼のなにげない仕草や笑顔。戦いが終わった後、アメルの無事を確認して安堵したように小さく笑う顔や、日々の生活の中でさりげなくアメルを支える姿。そんなものを見ると、あたしは逃げ出したくてたまらなくなる。
 わかってる。この想いがどうしようもないものだということは。
 かなえられるはずもない。彼はいつだって、アメルを見ている。
 かなえられていいはずもない。アメルを傷つけたのは、あたしたちだから。
 立ち向かうって決めた。逃げないって決めた。どんな敵とだって戦える。
 だけど、この想いだけは。

 どうしてあたしは、彼を好きになってしまったのだろう。



 夜明け前。
 リューグは同室で寝ている兄を起こさないよう静かに起き、軽く身支度を整える。
 早朝のこの時間、鍛錬に出るのは彼の日課だった。
 いつものように、再開発区の空き地に出るため屋敷を出る。何気なく見上げた視界に映った姿は
「――トリス?」
 いつもなら日が昇りきっても起きてくることがない少女のものだった。
(なにやってんだ、あいつ。こんな時間に……)
 顔を伏せているので、この位置からは影になって表情が見えない。だが……
(泣いてんのか……?)
 思い過ごしかもしれない。いつもいつだって、笑ってばかりいるヤツなのだから。
 けれど、その姿はひどく小さく見えて、どうしても放って置くことができなかった。
(確かめる、だけだ)
 急いで屋敷に戻り、テラスにあがる。
 徐々に明るくなりつつある空の下。一人で泣く、トリスの姿があった。
 たった一人、誰もいないこんな場所で。静かに涙を流しているトリス。
「…………………」
 その姿を見て、リューグは何もできなかった。側に寄ることも、声をかけることも。
 触れてはならぬような、そんな光景。
 どんなときだって、笑っていた。表情がくるくる変わって、でも笑顔が一番多くて。
 だけど泣き顔だけは見たことがなかった。どんなときも。
 罪を背負い生きていくことが、辛くなかったはずがないのに。
(ずっと一人で、泣いてたのか……?)
 こんな風に。壊れそうな姿で。
 今になって思い知らされる。自分たちがこの少女の肩に、どれだけの重荷を乗せてきたか。
 トリスはずっと笑っていたから、気づけなかった。気づいてやれなかった。
――こうなった以上、最後まで責任とれよ――
――二度とあいつを泣かすなって言ってんだよ――
 あの夜の後から、トリスはアメルの側にいて、自然にアメルを守っている。アメルが泣くことも、ほとんどなくなった。
 でも、トリスが、こんな風に一人で泣いていたなんて。
 自分が守りきれないと思ったから。罪の意識に甘えて責任を押しつけて。そうやって、自分が楽な方に逃げていた。その結果が、この光景。
 拳を握る。自分に対するいらだちと悔しさで、頭がどうにかしそうだった。
 その時、身動きした気配が伝わったのか、トリスが振り向いた。
「あ……」
「……リュー、グ」
 トリスは驚いた顔をし、直後、顔を覆って再び泣き出した。
「っ……なん……で」
 先ほどまでより、その涙は激しく。
 泣きじゃくるトリスは、一人の小さな女の子で。
 そんなことに、今初めて気が付いていた。



 夢かと思った。
 ずっとその姿を思い描いていたから、幻を見たのかと。
 だけど幻ではないその姿に、押し込めようとしていた想いが、胸にあふれる。
――どうしてこんなに、好きなんだろう……
 だけどこの想いを伝えて、彼を困らせることはできないから。
 何とか泣き止み、心配そうな顔に向けて、むりやり笑顔を作る。
「おど、ろかせて……ごめ……。あ、な……なんでも、ないから」
 絶対、うまく笑えてない。わかっていたけど、それ以外に何もできなくて。
 絞り出した声も、うまく形にならない。
 それでもその言葉が聞こえたらしいリューグは、怒りを込めてこういった。
「うそ、つくんじゃねえっ……」
 彼の強い視線があたしを射抜く。必死で取り繕った虚勢を暴くように。
 だけど、本当のことは言えない。この想いは伝えられない。
 アメルを想っている彼には――言えない。
 ……困らせたくない、なんて嘘だ。自分が、傷つきたくないだけだ。
 だからもう、これ以上リューグの前にはいられない。今ここにいたら、好きと言ってしまいたくなるから。
「うそじゃ、ないよ。ほんとに、なんでもな……」
 そう言って、立ち去ろうとした。けれど突然、強く、抱きしめられた。
 その強さに、自分の中のもろい虚勢が崩れ去る。
「ふぇ……うぅ……」
 リューグの腕のぬくもりに、涙があふれて止まらなかった。



「おど、ろかせて……ごめ……。あ、な……なんでも、ないから」
 無理をして、笑おうとしている姿が逆に痛々しかった。
 理由を話してもらえないことが、ひどく悔しい。
「うそ、つくんじゃねえっ……」
 思わず怒鳴った後、トリスはひどく辛そうな顔をした後で、立ち上がった。
「うそじゃ、ないよ。ほんとに、なんでもな……」
 そう言って去ろうとしたトリスを、気が付いたら、抱きしめていた。
 腕の中に収まるその体は、とても小さくて。壊れそうなほどに、もろく儚い。
 トリスは一瞬体を固くしたが、やがて、小さな声で泣き始めた。
「ふぅ……っく……」
 ――守りたい。
 強く、そう思った。  この少女に、二度とこんな涙を流させないために。
 ――こいつは、俺が守る。
 明けていく空に、そう誓った。




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