境界線
地面に1本の線が引かれている。どこまでも続く幅10センチほどのライン。
それは”此方”と”彼方”の境界線。
けして超えること叶わぬ線。
わたしは境界線の側に住んでいる。”彼方”に一番近い場所。朝から晩まで境界線を眺めていられるような場所。
境界線は、誰も越えたことがないという話。ここからでも、線の向こうは白い霧に邪魔され見えない。
ここに住む人は皆、境界線は存在しないかのように暮らしている。幼い子供ですら近づくことなく、おそれることなく、とても自然に。
時々、他の人にはあの線が見えていないのではないかと思う。それほどまでに、彼らは線に関わることなく生活している。
でも、わたしは……
「おーい。――――、何ぼーっとしてんだよ」
「あ、カロン。……別に、ぼーっとしてた訳じゃないよ」
カロンは近くに住む、数少ない同い年の貴重な友達。こう見えて、家の手伝いをするまじめな青年。やはり彼も、線の存在は気にならないらしい。
「じゃあ何してたんだよ」
「線、見てたの」
「線? あぁ、あれか。あんなの見て何が楽しいんだ? ぼーっとしてるのとかわらねーよ」
「そんなこと、ないと思うけど。でもいいわ。配達でしょう。ありがとう」
カロンの家は牛乳屋さん。彼はその配達を手伝っている。牛乳瓶の入った大きめのかごを荷台からおろす。
「ほらよ。んじゃ、俺は行くけど、あんまりぼんやりしてんなよ」
「あ、待って!」
わたしはあわてて、渡そうと思って作っておいたパイの包みを取りに行く。
「これ、作ったの。いつもありがとう。おばさんにも、よろしく言っておいて」
「おお! こっちこそサンキュ。お袋、これ好きなんだよ」
カロンは去っていく。笑顔で、手を振りながら。
……喜んで、もらえたのかな。
週に2回、牛乳を届けに来てくれる。あの重い車を押しながら。そしてそのたびに、いろいろ声をかけて、一人になりがちなわたしを心配してくれる。本当に、感謝している。
だからこうして、時々パイを作って渡す。
新鮮な牛乳をしまって、再び線の方に目をやる。仕事の機織りも、進まない。
やっぱり、窓の側でやるのがいけないのかな。
大きめの窓だから、日差しもたくさん入っていいのだけど、どうしても線が気になってしまう。
窓のすぐ側に立っていた、カロンに気づかないくらい。
――白い霧が立ちこめる線の向こう。
なにが、あるんだろう。
その時、りんとドアベルの音が聞こえた気がした。誰か来たのかもしれない。
カロンは直接、窓の方に来たりするけど、それ以外の人はベルを鳴らす。
わたしは玄関を開けて外に出てみた。
「誰も、いない……?」
風のせいかもしれない。線の方から吹いてくる風。
何となく、一歩を踏み出した。いつもは、見ているだけで近づかない、線の方へ。
そのまま、歩く。線のほとりに立つ。
これを越えたら、どうなるんだろう。足下に、白い霧が流れてくる。
真白い霧は時々線を越えて”此方”にやってくる。それでも線が見えなくなるほど”此方”で濃くなることはない。
ふと、わきを見る。
どこまでも、どこまでも伸びる線。
再び、正面に視線を戻したとき、何か黒い影が見えた気がした。
思わず、追いかけるように右足が動いた。
「あ!」
そこは、すでに――
「母さん。ただいま」
玄関を開けて息子が入ってくる。
「おや、お帰りカロン。何か変わったことはあったかい?」
「それがきーてくれよ。なんかいつの間にか、荷物に変な包みがまぎれてたんだ」
そういって包みを出す。
「どれどれ? なんか良いにおいがするね。……パイじゃないか。どうしたんだい」
包みを開けると、美味しそうなパイが現れた。
「だから、わからないんだよ。荷台から目を離したりはしてないと思うんだよな。誰か近づいたらわかるし」
「お前に好意を持ってる女の子、かねぇ」
「っていうか、年が近い女は近所にいねーじゃん。今日の配達も、ジーさんバーさんばっかだし」
確かに息子の同い年は少年が一人いるだけだとはいえ、彼は料理を作るなんてがらじゃない。
「だよねぇ。まぁ、カロンのファンていうのもあり得ない話だけれど。……おや、おいしいよ。これ」
「くうなよ! 変なもん入ってるかもしれねーじゃんか」
「そんなことないさ。おいしいよ、うん。気に入ったね。また持ってきておくれよ」
1つ、気になるのはどこかで食べたような味だということ。でも心当たりは思い浮かばない。
「だから、どうやって手に入れたかわかんねーんだって……」
息子は小さく、溜息をついた。
「あ、それよりさ。ダグのジーさんが、配達減らしてほしいって」
「ほんとかい? 最近、そういうの多いねぇ」
「この辺、ジジババばっかだかんなぁ。牛乳以外にもなんか考えた方が良いかもな」
暗い先行きに、奇妙な既視感はすぐに消えた。
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