家出



―― ぼくは”家出”した ――


「家出したんだ」
「え?」
「猫が、家出したんだ」
 俺の友人である小川桂(おがわけい)は曇り空の下、そうつぶやいた。
「猫って……あの、ちっさいの?」
「もう、ずいぶん大きくなったよ。猫は、成長早いから」
「そっか、そうだよな。もう拾ってからずいぶん経つもんな。
 ……で、いなくなったのか?」
「……うん」


 ぼくは、家出した。
 気がついたら見知らぬところにいた。たくさんたくさん走って、ふと辺りを見ればそこは見おぼえのない場所だった。
 ぼくは走りすぎて、息がきれて、そこに倒れこんだ。
 もう、動くことはできそうになかった。心臓はずっとばくばく言っていて、息もできなかった。
 この先どうなるのかなんて考えもできなかった。とにかく走って、めちゃくちゃに走って、どこをどうやってきたのかまるでおぼえていない。
「ぼくは……」


「いないって気付いたのはいつ頃なんだ?」
「夕べ、寝る前に居場所確認しようと思ったらいなくなってたんだ」
 桂はずいぶん気落ちした顔をしている。桂が猫を――当時は子猫だったがそろそろ大きくなった頃のはず――飼い始めて半年。やはりそれだけ一緒にいれば、情も移っているのだろう。
「どこか、開いてるところあったのか?」
「うん。網戸、開いてた。閉めておいたはずだから、自分で開けたのかもしれない。ドア開けるの得意だから」
「あれだろ? 室内飼いにしておいて、外には全然出してなかったんだろ?」
「でも、もとは野良だから。外見てること、よくあったし」
「半年も家の中で育てば、外のことなんて忘れちゃってるんじゃないのか」
「でも、あいつは僕のことを嫌っていたから……」


 倒れこんでしばらくして、ようやく落ち着いてきた。
 顔だけおきあがらせて、もう一度周りを見わたす。やはり、見おぼえはない。
 とはいえ、ものごころついてからほとんど家の外を出たことはなかった。正しくは一度だけ出たことがあったけど。そして、その時に僕はへまをした。
 あの人はとても怒って、ぼくをたくさん蹴って。たくさん大声でわめき散らした。それ以来、ぼくは外に出ていない。
 だからぼくの見おぼえのある景色なんて、家の周りだけだった。窓から見える景色、それだけがぼくの外のすべてだった。
 はじめての場所でどうすればいいのかわからない。どこに行けばいいのかわからない。 不安に、なる。やはり出てきたことは、まちがっていたのかと。外に出ることは、とても勇気が必要だった。本当に出てきてよかったのだろうか。
 それと同時に、どうなってもよいという思いもある。こうしてこのまま消えてしまうのも悪くないかもしれない……。


「嫌ってたあ? 勘違いじゃないのか?
 お前は悪い方に考えすぎなんだよ。それに、そうだ。家出なんて決まった訳じゃないだろ。たまたま外に出て迷子になっただけかもしれないし」
「……僕、何度もしかったりしたし。本当のことを言うと、ご飯あげるのを忘れそうになったことも一度じゃないし」
 悄然としてうなだれる。俺はつい、いらいらして強い口調で言った。
「しかるのは当たり前。しつけは大事だろ? わがまま放題でも困るじゃないか。エサのことだって、最終的には思い出してやったんだろ? なら問題なしだ。だいたい俺達人間だって時には飯食うの遅くなったりするじゃんか。それとかわんないよ。用はお前が反省すればそれでよしってことだ」
「反省は、したよ。でも繰り返した。……そう、嫌ってないはずがないんだ」


 おなかが、へっていた。食事はだいたい一日に一回だった。運が悪いと二日に一回になった。
 一日を過ごすには十分な量でなく、いつもおなかが空いていた。それに……いつもはしない運動をした後だ。ひどくつかれて、後少しで空腹も気にならなくなるかもしれない。それでも今はおなかが空いていた。
 このままここで眠るのも良いかもしれない。少し寒いが、家にいたときも暖かい思をしたことはなかった。そういう意味では体はなれている。風邪も引かないだろう。引いても困りはしないが。
「でも、苦しい思いを最期にいっぱいするのはやだな……」
 あの人はどうしているだろう。ふいにそんなことが気になった。
 ぼくが家を出たことに気づいただろうか。もしかして、ぼくをさがしていたりしているのだろうか。 それなら……


「なんでそこまで卑屈になるかな」
「……」
「あー、もういいよ。それより、猫、捜すのが先だな。この辺はもう捜したのか?」
「うん、少し。でも猫ってどんなところにいるのかよくわからないから、見落としてたりするかもしれない」
「猫が居そうな場所ねぇ。そんなん俺にもわからないなぁ」
「……もしかして捜してほしくなかったりするかな」
 ぽつり、つぶやいた。その横顔はとても寂しそうで、見ているこちらが切なくなった。
「そんなことないだろ。きっと見つけてほしいって思ってるよ。迷子になって心細いって思ってるんだって」
「ちがう。家出したんだ」


 それなら、逃げなければならない。走って走って、逃げて逃げて逃げて。もう進めないと思ったけれども、つかまるわけにはいかない。
 たとえこのまま死んでしまうのだとしても、つかまるのはいやだった。こわかった。
 ぼくが逃げたことがわかれば、あの人はようしゃしないだろう。何をされるかわからない。
 ならばいっそ、戻った方が良いのだろうか。今すぐ戻れば、まだ気づかれていないかもしれない。またあそこに、あの”家”に。けがはしても、死ぬことはないのだから。今までだって、何とか耐えて行けたのだから。だけど、逃げたのがばれれば、どうなるのかはわからない。
 今までおとなしくしていた、ぼくの反抗だから。許されることはないだろう。
 ぼくは来た道を頭だけで振り返った。そして戻ることをあきらめた。どうやって来たのかはわからない。戻ることはできないだろう。
 ぼくは何を考えているのだろう。こうして逃げることができたのに戻ることを考えるなんて。
 だけどこわかった。あの人におびえる毎日で、それが当たり前だった。だけど今はあの人がいなくて、でもおびえは消えない。こわい。
 どうしてだろう。家にいるときよりも、こわい。いけないことをしているという自覚があるから。
 どうして、どうして逃げ出したりなんてしたのだろう。今までやってこれたのに、何とかってこれたのに。どうして、ぼくは……


 再び、桂が暗くなっていったので、またいらだちがぶりかええしてきた。自己嫌悪的なその言動がひどく俺を傷つけていることに気づいていないのだ。
「だから! 家出じゃないんだって。たまたま窓が開いててさ。そしたら興味だって出るだろ? それは別にお前が好きとか嫌いとか関係ない話だよ。お前がそんな風に言ってたら猫だってかわいそうだ」
「でも…… 戻ってこないんだ」
「だからさ、それは迷子になったんだよ。戻りたくて戻れなくて、お前のこと恋しがってるよ。今だってきっと、お前が見つけてくれるの待ってんだよ」
「そうなの、かな。……僕も、迷子なのかな。見つけられるの待ってたのかな」
「……桂」
「僕だって戻った方が良いと思わなかったわけじゃないんだよ。ただ、道がわからなかっただけなんだ。……僕はここにいて良いのかな」
 帰り道を探さないままで。
「お前は……戻りたかったのか?」
 桂は小さく首を振った。わからない、と。
「僕は家を出たつもりだった。でも、迷子だったのかもしれないね」  帰る場所がわからなかった。帰るべき場所も忘れてしまった。全てが霧の中のように曖昧で、自分の意志すらわからない。どこに居るべきなのか、どこに居たいのかも。
「家出じゃないだろ、お前は。だって、お前の家はここなんだから。出ようがないじゃないか」
「……」
「それに、もしお前が迷子なら、俺が見つけたよ、お前を。――ほら」
 手を伸ばし肩口をつかむ。食事もまともにとらない、細いからだ。
 父親の陰湿ないじめに耐えて、耐え続けて、ついに耐えきれなくなって逃げ出し、ボロボロになっていた。
 ゴミのように地面に倒れこみ、うつろな目で俺を見上げた。
 とっさに拾ってかくまって。今でも……正しかったのかわからない。桂は、昔を忘れていないから。
 ここにいながらも、過去を生きている。些細なことにおびえ、側にいる人間を見ようともしない。
 あれからもうずいぶんと時が経ったのに。それでも。
 そんな時、桂が拾ってきたのが猫だったのだ。桂が初めて示した外界への反応。
 桂は預けられた施設で、猫を飼い始めた。世話も、全て一人で行っていたらしい。今まで、聞かれたことにしか答えず、言われたことしかやらなかった桂が。
 猫は桂と外界をつなぐ鍵になるはずだった。
 それが――


 ぼくは、どうして良いかわからず、ただ横になっていた。
 進むことも、戻ることもできないのなら、このまま眠りたかった。実際、眠ってしまったんだと思う。
 小さなあしおとで目を覚ました。見上げると僕と同じくらいの、少年がいた。
 とても暖かそうなコートを着ていた。ぼくまで、暖かくなった気がした。
「お前……、こんなトコでなにやってんの」
 少年がたずねた。
「……逃げて、きて」
 のどがかすれて、うまく声が出なかったけど、それだけ言うことができた。
 少年はわかったのか、わからなかったのか、軽く首をかしげながら、
「お前、寒くないの?」
 とだけ言った。
 言われてみれば寒かった。ずっと、寒かったけど。忘れることができそうだったのに。言われると、ひどくそれが気になりだした。
「……寒い……」
 だから、そう言った。
 すると、
「やっぱそうだよな」
 といって軽く頷いた後、少年はこちらに手を伸ばしてきた。
「オレん家、来いよ。あったかいぞ」
 その言葉は、本当に暖かそうで。僕は少年の手を取った。


「とにかく、探そうぜ?」
 そう言って俺は、近くの藪の中を覗く。だけど大して奥は見えない。それでも諦めきれず、ほとんど地面にはいつくばるような形で猫を探す。
 なんとしてでも、見つけたかった。
 だけど桂は俺を止めた。
「やめよう」
「なんでだよ。探せば見つかるかもしれないだろ?」
 桂はゆっくりと首を振った。
「あいつが、自分から出ていったなら、それも良いのかもしれない。誰かに拾われて、それで、幸せになっているかもしれないから」
「桂……」
 そんな時、俺は聞いた。鈴の音を。
 みゃおう、と小さい声がして、白い毛玉が藪の中から出てきた。桂の、猫だ。
「帰ってきた……」
 信じられない物を見るような目で桂は猫を見る。
 だから俺は言ってやった。
「あたりまえだろ? 猫は猫で、お前じゃないんだから。猫の家もお前の家も、もうここなんだから。帰ってくるのは、ここなんだよ」
 手を伸ばし、猫に、触れる。その感触を確かめるように。そして、確かにそこにいることを確認して小さく頷く。
「そうか。……そうだね」
 桂は小さくほほえみ、猫を抱き上げた。
「おかえり」


戻る topへ