ふいっふいっ 目の前で揺れる柔らかそうな緑の毛。 ふいっふいっ 実はそれが少しも柔らかくないなんてこと知ってはいるけど。 ふいっふいっ 「何がやりたいんですか、アナタは」 廊下の角から窺うように片手だけだし、猫じゃらしを振っている人間に尋ねる。 「……ちっ、釣れなかったか」 心底悔しそうな顔をして、その人は姿を現した。 「……釣る? 僕は人間なのですが。猫じゃらしで釣るというのも用法的に間違っている気がしますね」 「猫もお前も、似たようなものだろう」 その人はにやりと笑う。それはチェシャ猫に似ていて、自分の方がよっぽど猫みたいだと思う。ひょうひょうとしていて、つかみ所がない。 「それで、なんの用なんですか。先輩」 「顔が見たかった……じゃいけないのかい?」 再び、にやり。この人がこの表情を崩すなんて、地球が崩壊してもないような気がする。 「遠くから勝手に見てください。失礼します」 「おやおや、勘違いをしているな? 私はただ、お前の顔が見たかった訳じゃない。見たかったのは……その表情さ」 自分の眉に力が入っているのを感じる。多分、しかめ面というのだろう。こういう表情を。 「ずいぶんと悪趣味なんですね。しかし、これで用事は終わったわけですから、今度こそ失礼させてもらいます」 背を向けて歩き出そうとするのを、大げさな動作で止められる。 「おいおい、このねこくんは相変わらずつれないなぁ」 あきれたような口調。笑いは、崩さないままだが。 「ふふふ。しかし、それが猫たるゆえん、か」 「僕が根子という名前なのは、先祖のせいで僕とは関係がありません。それに先輩が言っている猫とは字が違います」 脇をむりやり通り抜けて進もうとすると、今度は首に腕が回された。 「そんなことは関係がない。今日は暇なんだろう? 遊ぼうじゃないか」 そういうと先輩は手に持った猫じゃらしを僕の目の前で振った。にやにやと笑っている先輩の目。目の前で揺れる緑の穂。 「……いい加減にしてください。誰が暇だなんて言ったんですか? 僕はこれから用事があるんです」 乱暴に猫じゃらしを払い、腕をむりやり引きはがす。正直、これ以上つきあっていたくなかった。あまりもたもたしていると、待たせている友人にも悪い。 強引に先輩を突破し、速いペースで廊下を歩く。 妙にイライラする。なぜ先輩はいちいち会うたびに猫扱いするのだろう。人が嫌がろうが気にしもしない。 先輩が追ってきている気配がするが、あの人の足の遅さでは追いつくことはできないだろう。念のため、一度下駄箱の方に向かうふりをしてから、友人の待つ教室に向かう。 先輩と離れても、イライラとした感情の高ぶりは消えない。むしろ増えていく一方だ。 なんなんだというのだろう、あの人は。出会った時からまとわりついて、人のことをねこ、ねこ、ねこと! 人気のない廊下に僕の足音が響く。こんな気分のままで、とても友人に顔を合わせられそうにない。 気分を落ち着けなくてはいけない。一息つくと、僕は壁に頭をもたせかけた。 確かに僕はやっかいな名字のせいで、昔っから猫あつかいはされていた。少し前までこの名前はコンプレックスになっていたほどだ。 だけど人の名字でからかうなんて、小中学生までの間だろう? 実際中学の時もからかわれていたのは1年の時まで。2年になってもしつこいヤツは何人かいたが、3年になれば、みんな受験でそれどころではなかったし。 それがなぜ、いまになって。 あんな人に出会わなきゃいけないんだ。 子供みたいな人ではあると思う。子供なのだと思うことができれば、こんなに腹は立たないのかもしれない。だけど、先輩は子供じゃない。 子供特有の天真爛漫さとか無邪気さとか、あの人にあるのはそういうものじゃなくて。 それが先輩を決定的に子供ではなくしている。 顔立ちは整っているし、運動能力はないが頭はいい。いかにも熱血ぶった非生徒思いの教師を言葉だけでやりこめたとか、校長に直談判して校則を変えさせたとか、伝説にも事欠かない。後輩にも人気が高く、校内の中心的人物といっても差し支えないどころではない。 まるでヒーローみたいだと思う。誰もがあこがれる、その鮮烈なまでの存在感。 僕だって本当は嬉しくなかった訳じゃない。そんな人に声をかけてもらえることを誇りに思わなかった訳じゃない。 だけど、何かが違うのだ。一緒にいる時間が長くなればなるほど、感じる違和感。そう、気まぐれに猫をからかう人間のように、気まぐれに猫じゃらしで遊んでみる猫のように。 あの人にとっておもちゃでしかない、自分。 いつ飽きて別の新しいおもちゃを見つけるのかわからないのに。 そんな関係に甘んじて、尾を振って歩くような生き方はしたくない。いっそ、離れてしまった方が、潔いというものだ。 なのに。はっきりと迷惑だと告げようが、邪険に扱おうが懲りることがない。困惑は次第にいらだちに変わり現在に至っているのだ。 離れたいのに離れられない。まぶしいから見たくないのに見せつけられる。それ故のいらだち。あの人は自然に、あるがままに行動しているだけで、僕がいらだっていることにも気づいてすらいないのかもしれない。 深呼吸をする。もう一度、気分を落ち着けるために。追ってくる足音はしなくなっているから、今日はもう、会うことはないだろう。 できれば、二度と会えなければいいなどと思いながら友人の待つ教室へ向かった。 「すまない、佐瀬。遅くなった」 放課後待ち合わせをしていた友人、佐瀬がいるはずの教室の戸を開ける。 「いやいや、ねこくん。私はちっとも気にしていないから、謝る必要はない」 ……なぜ。 「僕は佐瀬に謝ったのであって、貴方に謝ったんじゃありません」 この人がここにいるのだ。 「あはは、根子。俺にも謝って貰う必要はないよ。先輩のおかげで退屈もしなかったし」 佐瀬がさわやかに笑う。先輩がここにきたのは僕とそれほど変わらない時間のはずだが、それでもそんなことを言うのは僕への気遣いでなく、佐瀬が先輩のファンだからだ。最初のうちは冗談か何かだと思っていたが、どうやら本気らしい。 「それで佐瀬、僕に見せたいものって?」 先輩のことはとりあえず無視することにし、佐瀬に用事を聞く。 「そうそう。君がこの間、読みたいって言ってた本、持ってきたんだよ〜」 「本当に? 助かる」 佐瀬から本を受け取ろうとすると、横から手が伸びてきてそれを奪い取る。 「南風方雅史か。家に全集があるが?」 例の、挑発するような笑みで先輩が言う。 「……結構です」 見せびらかすように持っている先輩の手から、佐瀬の本を取り返す。抵抗は、ほとんどなかった。 南風方雅史はマイナーな作家で全集どころか、その著作でさえほとんど見かけない。だが、個人的には非常に好きな作家で全集があるならのどから手がでるほど読んでみたかった。 だけど、エサにつられるようなまねはできない。 「ええ!? 南風方の全集なんて出てるんですか」 「ほう。佐瀬くんも知らなかったとは。お前は読むかい?」 「いいんですか? ありがとうございます!」 嬉しそうにうなずく佐瀬。実際、うらやましいと思わないわけでもない。 彼は、自分の欲求に正直だ。素直に本を読みたいと言い、素直に先輩への好意を表現する。それに比べて僕は、あまりにも自分に不正直だ。自分の望みを何一つ口にできない。 「では佐瀬くん。これから取りに来るがいいよ」 その一言に、佐瀬の瞳が輝く。 「え? お伺いしてもよろしいんですか」 「もちろん。茶くらいは出そう。南風方雅史を読みたがる人間は貴重だからね」 そのとき、唐突に不敵な笑みでこちらを向く先輩。 「もちろん、ねこくんも来るだろう?」 「……どうして、そういう展開になるんですか」 「それはもちろん! このねこくん今日の予定表メモにこれから私の家でお茶と書いてあるからさ」 見せびらかすように謎の紙切れを取り出す先輩。 抵抗する様子もないので奪ってみてみると見覚えのある字で、 『根子の今日の予定……なし 備考:放課後1−Cへの寄り道アリ』 と書いてあった。 「……佐瀬」 「ん? どうしたの、根子」 わざととは思えないほど、見事にとぼける佐瀬。 「今朝、僕の予定を聞いていたな」 「うん、覚えてるよ」 笑顔で頷く。 「僕に用事があったから聞いたのかと思っていたが」 「もちろん、そうに決まってるじゃないか」 「じゃあ、これはなんのつもりなんだ?」 佐瀬の字で書かれたメモ。 それを突きつけているのに、彼は平然とした顔で、 「だから、君に用があったんだよ、先輩がね。だから予定を聞いて渡した。何かおかしなこと、あるかな?」 ついでに、家におよばれするなんて、役得があるとは思ってなかったけど、と言ってのけた。 そう、佐瀬は自分の欲求に正直な男だった。先輩の役に立つという欲求の元、友人を売ることなど何とも思っていないだろう。 たぶん、先輩至上主義の佐瀬には、僕がそれを不快に思うということも、想像できていないのだろうけれど。 「とにかく。僕には貴方の家に行くなんて予定はありません」 きっぱりと言った。だいたいメモにもそんな事は書いていないわけであるし。 「なんでだい? 暇なんだろう」 「用事がないからといって、暇とは限りませんよ」 来週提出の課題、部屋の整理整頓、予習復習。やるべきことは山ほどある。 先輩の家に行かなくて良い言い訳も、山ほど、ある。 僕は、行きたいのだろうか。それとも、行きたくないのだろうか。 自分でも自分のことがわからなかった。 「だけど、別に忙しいってわけじゃないんだろ?」 佐瀬が、一緒に行こうよと誘ってくる。 僕は数秒逡巡した後、決心した。 「忙しいんだ。少なくとも、貴方の家に行くよりは重要な用事がありますので」 前半を佐瀬に、後半を先輩に向かって告げる。 「どうしても駄目かい?」 「どうしてもです」 先輩はしつこく食い下がってきたが、僕はきっぱりと断った。 ここで折れれば、僕はきっと後悔するだろう。先輩がもてあそんでいる猫じゃらしのように、この人のおもちゃでしかない自分を自覚して。 傷つきたくないから、逃げているだけ。そういわれてしまえば身も蓋もないけれど。それでも。逃げることですら、僕にとっては戦いなんだ。 「佐瀬くん。私はねこくんに振られてしまったようだ」 悲しげなため息をつく。 本気では、ないくせに。 「それではもう用事はないでしょうから、今度こそ失礼させて貰います。佐瀬、本、ありがとう」 それだけ言うと、さっさと教室を後にする。 後ろで佐瀬がとまどったような声を上げていたが、聞こえなかったことにした。 昇降口まで来たとき、後ろから足音が聞こえた。 「待ってよ、根子!」 佐瀬だ。声を聞かなくても、先輩でないことはわかっていた。僕は早足でここまで来たし、先輩は走っても常人の歩く程度の早さしか出せないからだ。しかも体力もない。 しかし、佐瀬が追ってくるとは思わなかった。あの佐瀬が。先輩を置いて。 「先輩は?」 「こっちに向かってるよ。俺は先に来ただけ。あ、でも足止めとかじゃないから!」 慌てて、手を顔の前でばたばた振る。 「その証拠に、急いで用事をすませるよ。あ、これあげる」 言ってることとは逆だが、佐瀬は思いついたように、手に持っていたものを僕に渡した。 先輩が持っていたねこじゃらし。 先輩にとってのおもちゃ。皮肉的すぎる贈り物を突き返そうと思ったとき、不意打ちに 「南風方好きなのに、どうして行かないんだ?」 その問いが来た。 どうして? ただの、意地だ。 「言っただろう? いろいろ忙しいんだ」 だけどそんなこと、口に出せるはずもない。 佐瀬はためらうそぶりを見せたが、それでも間をおくことなく口を開いた。 「こんな事言うと、根子はいやがるかもしれないけど。俺は君がうらやましいよ」 彼の言いたい事がわからない訳じゃない。だけど、それでも。 「僕は佐瀬の方がうらやましい」 いつからこんなに不自由になったのだろう。 特別を信じ切れなくて逃げた。特別になるためにあがく事もしなかった。 本当に、特別にはなりきれないのだと、知ってしまう事が怖くて。 人の好意を、信じる事ができなくて。人に好意を、返す事ができなくて。 誰かを好きになんて、なりたくなかった。誰かを特別だと思う事なんて。 臆病者とさけずまれても、卑怯者だとののしられても、誰かを好きにならなければ、傷つく事なんて無い。 だけど、だから。まっすぐ好意を口にして、ひるむことなく自分の気持ちと向き合える佐瀬の姿が、僕にはまぶしい。 自分には決してできない事だと、知っているから。 「だったら、来ればいいじゃないか」 思いを見透かしたかのように、佐瀬が言う。 「僕は行かないよ。行けない」 先輩のものらしき足音を耳にして、僕は佐瀬に背を向ける。 「本、ありがとう。明日、返すから」 本当は、気づいている。僕は先輩を嫌いなわけじゃない。あの人に対して、腹を立ててもいない。あんな猫扱いだって、許容できないわけじゃない。 ただ、怖いだけ。 いつかあの人を今以上に好きになってしまうことが。そして、その時に嫌われてしまうことが。 臆病な僕が、そこから逃げることを選んだ。自分から嫌われてしまえば、そして自分から嫌いになることができれば、本当に嫌われてしまったとき、傷つかずにすむ。 否定的な未来におびえ、今を信じることができない、弱さ。 「ねこくん!!」 後ろから先輩の声が響いた。振り返ればそこには、全速力で走って来たのだろう、必死で呼吸を整えている先輩がいた。 「ほん、とうに。来ては、くれないの、かい」 先輩は、笑ってなんかいなかった。肩で息をしながら、真摯な目で僕を見ていた。その瞳に、わずかに怯えさえにじませて。 そんな、まさか。嘘だろう? 嫌われる前に、嫌ってしまえばいいと思った。些細な言動を、憎む理由にした。 けれども。その感情をぶつける相手が、嫌悪に傷つくかもしれないなどとは考えもしなくて。僕と同じ、弱さを持つ人間だとは、思いもしなくて。 そして、ああ、佐瀬は。あきらめと悲しみと、憎しみが混じった目で僕を見ていた。 僕の弱さが、先輩だけでなく佐瀬も傷つけていたのだ。 佐瀬がうらやましいだって? 佐瀬はずっと報われない感情と戦っていたのに。そこから逃げた僕の言えたセリフではなかった。 先輩だってそうだ。人に否定をされるのが辛くない人間なんているわけがない。なのに僕は傷つく前に怯えて、傷つけなくていい人たちを傷つけた。 「……しつこくして、悪かった」 うつむいたため表情の見えない先輩。その肩がかすかにふるえてさえいる気がする。 「もう、しないから」 「あの……!」 とっさに僕は声を上げていた。いいえ違うんです。本当に今日は用事があっただけで、別にそういう意味じゃ……なんて。思わず出かけた言葉を飲み込む。 先輩を引き留めて。それからどうするというのだろう。これだけ傷つけたのに。また、傷つけるかもしれないのに。 「……すみません、でした」 深く、一礼した。これが逃げまわった先に待ち受けた、僕の結末。ならば、これ以上傷つけることのないよう、このまま立ち去ろう。それすら逃げかもしれなくても、他の方法が見つからないから。 僕はそのまま、先輩達に背中を向けて家に帰った。 「失敗したようだね、佐瀬くん」 「みたいですねー。根子ならあそこで折れると思ったのに」 「うむ。とんだ誤算だった。だが、罪悪感に悩むねこくんは、なかなかキュートだったからよしとしよう。しかし次からが問題だ。もうしつこくしないと、言ってしまったからな」 「うーん。……家以外のところにしつこく誘うのはどうですか?」 「ふむ。確かに何をしつこくしないのかは、明言しなかったからな。そういう方向性で行こくとするか」 「しかし根子って、まれに見るほどの純粋くんですよね。思ってること、ほとんど顔に出るし」 「そうだ。そのくせ妙に牙をむくからかわいい。あれだな。まさしく素直じゃない子猫」 「確かに。でも、今回はちょっとやりすぎでしたかね? 根子、本気でへこんでたし」 「……ねこくんは折れると思ってたからな。そうじゃないときのフォローは考えてなかった」 「ですね。でもまぁ、またちょっかい出せば、怒り出して忘れてくれるかな?」 「そうであることを願おう。本気でねこくんが相手をしてくれなくなったら、寂しくて生活に張り合いがないからな」 「まったくです」 ふいっふいっ 目の前で小さくなっていく頑固そうな青年の背中。 ふいっふいっ 実はそれが少しも頑固ではなく、おもしろいほど揺れやすいなんてこと知ってはいるから。 ふいっふいっ ついついかまいたくなってしまうのは、それも愛の一種だと信じたい。 |
すみません、すみません、すみません!!
なんか、走る書いてた時に何も決めないまま書き始めると
収拾がつかなくなるからやめようと、あれだけ決意してたのに。
今回また、何も考えず書いてたらこんなことになりました。
もうやりません。ホントすみません。
いっぱい、いっぱいです。
オチが二転三転四転したため、伏線も何もあったものじゃなく。
前後の矛盾はフォローしたとは思うけど……どうなんだろう!
何も考えてなかったから、テーマももちろんあるわけがない。
正直一から書き直そうとは思ったけど、これ以上時間もかけたくないし、もう無理。
本当に、こんなんで申し訳ありませんでした!